原子爆弾の投下はゆるせない

 ふるさと長崎をはなれて四二年になります。原爆が投下された日、長崎郊外にある川南工業(株)香焼島造船所資材課に勤務しておりました。二一才でした。
 戦争の終わりごろは、事務職の私たちも、定時二時間ほど、手榴弾を型にはめ込む作業をしておりました。今思うとこっけいな気がしますが、その時は真剣でした。
 八月九日は、とてもよく晴れた暑い日でした。空襲警報解除で事務所にもどり、ほっとする間もなく、青白い閃光が走るのを窓越しにみました。同時に、事務所内のついたてが倒れ、なにがおこったかも分からないままに、夢中で机の下にもぐりました。
 どれくらいたったでしょうか、恐る恐る這いだしてみたら、事務所の窓ガラスは割れ、書棚はめちゃくちゃに倒れ、さんざんな様でした。
 でも、いま考えると、また、その後の市内の被災を思うと、ものの数ではなかったですね。そのとき、市内は大変なことになっていたのに、島なので、市内からの情報が全然はいらず、何が起こっているのか皆目わからずにいたら、二時すぎになって、市内全域が燃えているということで、急いで帰り支度をして桟橋に集まり、通勤船に乗りました。
 船が港内に入ると、火柱が上がり、音を立てて炎上していました。すさまじいものでした。私の家の方は、火の手もなくほっとしましたが、浦上方面の人たちは、言葉もなく途方にくれて、なぐさめの言葉もありませんでした。その後、その人達の消息は分かりません。

話さなければ終わらない
 家に帰ってみると、父が言葉もなく、もくもくと玄関の割れたガラスを片付けておりました。私の家は、爆心地から三キロあまりのところですが、谷間のような地形でしたので、その程度ですんだと思います。
 兵器製作所に勤めていた兄は、その日は帰らず、どう探しようもなく待ちました。三日目に、背中にたくさんの砂利やガラスの破片がつきささった状態で帰ってきました。同じところに勤めていた伯父さんが心配で、探しあて、声をかけたら大丈夫との返事で帰ってきたとのことでしたが、その伯父は、いく日もせず亡くなりました。
 その伯父の家は、医大の正門前でしたが、爆風で跡形もなくなっていました。自宅にいた伯母は即死だったとのことでした。いとこは医大に通っていたのですが、爆風で身体が窓にはさまっていたところを、助けるために窓をあけられた拍子に、窓下の燃えているなかに落ちて、生きながら火だるまになって死んでいったとか。
 結局、両親、妹を一時に失い、残されたいとこ二人は、たまたま下の妹を両親にあずけに行っていて助かったのですが、心痛む思いはなかなか消えません。私と同い年で、いま七十になるのですが、私の思いの中にあることは、活水女学校の制服を着た姿しか思い出せないんです。五十年近く、音信不通です。逢いたいです。逢ってあのころのことを話し、悲しいことかも知れませんが、話をしなければ、私たちの戦争は終わらないような気がします。
 昭和二二年に、結婚のために会社を辞めました。主人二五才、私二三才でした。主人は公職追放のため(憲兵だったそうです)、まともな職に就くことができず、会社もレッドパージで辞めざるをえなかったけれども、会社の民主化運動のさきがけとなり、原水爆禁止、平和運動の先頭に立って、一途に走った主人は立派だと思います。
 いま、私は被爆者ですと、おそれずいえて、平和のことを真剣に考え、語り合えることができるのも、主人が道標を示してくれたからだと信じております。
 原子爆弾の炸裂で、大きな工場の鉄骨が、三千度を超す灼熱を浴びて、アメのようにまがったと聞きます。三千度の熱がどのようなものなのか想像もつきませんが、一瞬にして七万余の人命を奪った事実は曲げることはできません。原子爆弾は、決して許すことはできません。また、二度と繰り返してはなりません。
 私の原爆体験は小さい小さいことですけど、私たちにできること、語り部のなかに入ること、聞き書き運動を被爆者の立場ですすめること、などの手伝いができたら、幸いに思います。

語り: K.Hさん
聞き書き: さいたまコープ・ドウコープ
出典:「平和がいちばんいい」
発行:埼玉県生活協同組合連合会 TEL048-833-5321