平和が一番

 あの日(八月九日)、僕は長崎市の中新町というところにいました。ちょうど家の前に防空壕があって、そこから外を見ていたら、飛行機が一機飛んできてね、「音がしないな」と思ってさらに身を乗り出したとたん、ピカッと光ったんだ。
 子どもの遊びで、太陽を鏡で反射させてピカッとさせるでしょう。あれとおなじ感じでした。こりゃ危ないと思って、すぐに防空壕に引っ込んだ。あんまりびっくりしたから、みんなに笑われたけれど。
 それから空襲警報が解除になって、三時間ぐらいたったあとの午後二時か三時ごろ、近くの山に登ったら、市街が真っ赤じゃないか。火の海って言うんだろうね、ああいうの。その恐さは今でも忘れないな。
 その年、父母の出身の五島に引っ越したんだが、一年もしないうちに父が死にました。原因不明っていってたな。当時はみんな(死ぬのが)若かったよ。大正四年生まれだから、死んだのは三十代の終わりごろになりますかね。
 田舎だから、医者は一軒か二軒ぐらいしかないときだし、いまみたいに原爆病なんて知らないころだもの。手当の方法なんて誰もわからない。
 が、「頭が痛い」ていって、ねとったところを、トントンと叩かれたのを覚えております。結局、苦しんで死んだみたいですね。 

貧乏と病気の日々
 それから二年くらいしてからかな、母が再婚して長崎に行ったのは。僕らは三人兄弟でしたが、母は一番下の妹だけをつれていったんです。だから長男の僕と下の弟は、祖父のところにずーっとお世話になりました。僕が八、九歳のころかな。
 祖父の家は百姓でした。でも僕は百姓がいやでね。キリスト教なもんで学問が好きで神父になろうと思っていました。それで海星高校に進学し、中学二年の時には長崎の学校に転校したんです。でも二年くらいで挫折して・・・。
 その後、二十歳ぐらいまで長崎にいましたが、成人式を迎えてどうしても(家を)出たくなりました。
 いま考えると、そのころは、ちょっとぐれかかっていたんですね。別に悪いことをしたわけじゃあないが。やはり父が死んでから、家族的っていうか、そういうものを感じたことがなかった。
 それで、とにかく長崎を出たくて、たまたま新聞の広告で、京都のパチンコ屋の店員応募を見て、正月あけにパチンコ屋に勤め始めました。
 そこで二年くらい働いた後、大阪のパチンコ屋に移りました。なじみのお客さんに電話工事の親方という人がいて、親しくなったんです。結婚したいというと、「面倒見よう」ということになり、二三歳で結婚してそこで働くようになり、そのころは「人生スムーズにいくかな」と思ったもんです。
 二八、九歳の頃かな、体がおかしくなってきました。ひざにね。別にけがしたわけでもないのに、持病が出てきたんです。
 電話工事の仕事は徹夜が多く、おまけに水を張ってあるマンホールの中なので冷えることが多い。「ひざによくないよ」といわれたけれどがまんして働きました。
 しかし、身体も弱ってきたのか、四季の変わり目には風邪をひくようになり、扁桃腺の熱が出てきてそのうち、下がらなくなりました。マイルセンっていうの、あれを飲んでました。
 関西大の病院を紹介してもらって、手術して三年くらい苦しみました。それでも季節が変われば風邪をひくというのはなおらず、扁桃腺も切ったらようやく風邪をひかなくなりました。

毎年、広島・長崎へ
 子どもは二人できましたが、身体が弱く、あの頃は貧乏のどん底でした。やがて再就職して、昭和四六年の八月だったか、埼玉県の三郷市に転勤しました。三七、八歳のころです。
 でも、今度は椎間板ヘルニヤにやられ、まる二年苦しみました。ひどいときには寝返りも打てなくて、声も出ない。痛くて叫びたいんですが、声が出ません。無理して声を出すと、ものすごく響いて、どうしようもないんですよ。指圧にお灸に電気針。ありとあらゆる治療をやってみたが、だめ。
 もう亡くなりましたけど、会社の社長がいい人で、「社長命令」ということで、大阪とか名古屋とか出張する。一週間とか十日泊まりとか、まあ、治療してこい、というわけで、おかげでずいぶん助かったものです。それ以来、痛みはないが、無理しちゃいけないと用心はしています。いまは何とか治りましたが、二つの大病のおかげで、髪は真っ白になってしまいましたよ。
 被爆者手帳をもらったのは遅くて、昭和四七年だったかなあ。原爆が落ちなかったら、また別の、いい生き方ができたかもしれませんね。でもまあ、五体満足なんだから、よしとしなくては・・・。
 いまの会社は八潮にありまして、前の会社から独立した人と一緒に働いているんですが、僕が被爆者だというのに、理解があってうれしい。「国会請願に行くから休ませて」っていうと、いいよといってくれます。
 補僕が被爆者だと言うのは、子どもには小さいときから話して聞かせていました。別に子どもたちには差別はなかったみたいです。自分が被爆者だということを隠してはこなかった。ちゃんと自己紹介の時でも何歳被爆者だって、いってました。
 しらさぎ会にも入って頑張っています。広島・長崎には一番最初のときにいきました。三人くらいでいったのかな。それから毎年行くようになったでしょう。一番最初だったから自腹で行くっていってね。
 しらさぎ会の仲間もだいぶ亡くなりました。総会などで集まるときは楽しいんですが、だんだん、知り合いが少なくなるのは寂しいもんです。ただ二四、五年もかかわっていると、新しい出会いもあってうれしいです。
 故郷の長崎にはもう何十年も帰ってないから、電話がしょっちゅうかかってきます。「来年は帰ってこい」と・・・。まあ、いつ行っても変わらないと思いますけどね、長崎は。いや、ずいぶんたってるから変わっているかもしれないなあ・・・。
 とにかく、平和が一番いいと、思います。

語り: Oさん
聞き書き: さいたまコープ・ドウコープ
出典:「平和がいちばんいい」
発行:埼玉県生活協同組合連合会 TEL048-833-5321