死体とけが人であふれる

 私は、当時、学徒動員で兵器工場の鋳物工場に勤務していまして、四人一組で製品をつくっていました。十五歳でした。
  八月九日その日、会社に行く途中に、警戒警報のサイレンが鳴ったんです。工場に着いたら、それが空襲警報にかわりました。それで班長さんに引率されて、橋の下までひなんしました。 
 しばらくすると警報が解除され、また工場に戻ったんです。そして仕事をしていましたら、ピカッと光が走りすぎました。「あら」といって、光の方を見ました。すると急に、周囲が真っ暗になったと思ったら、いろんな物が落ちてきて、背中や顔にガラスの破片があたり、私は座り込みました。「あっ、逃げんといかん」と手探りで外へ出ました。自分がどうやって這い出したのか、気がつくとコールタールのなかに足をつっこんでいました。
 はいていた下駄が、とけたコールタールにピタッとはりついて、とれない。 もう夢中になって裸足になって逃げました。私は、着のみ着のままで、橋の下まで行きました。たおれた建物の中から、人が出てくる。建物が燃えている。煉瓦の建物も燃えて、一つずつパアッ、パアッと落ちてきます。土のかたまりの煉瓦が燃えるなんてと思いました。そのときキャーッという声が聞こえてきました。今でも、その声が耳に残って消えません。
 そばを歩いている人が、地下足袋(じかたび)をはいているんですが、骨が見えて、地下足袋と、身と皮がペタッとくっついていて、めくれて、それでいてボコボコと歩いていました。
 原爆が投下された直後だったので、お互いに無我夢中で歩いていたのですね。川のふちや、井戸のところでは水を飲んでいる人がたくさんいました。それから、元気な人は、担架を持ってけが人を次から次と線路の土手に運んでねかせていました。 すぐ、汽車に乗せて、病院につれていけるように。
 私も駅について、汽車に乗るつもりでしたが、歩ける人は歩くようにといわれて、乗せてもらえず、また歩きました。途中、同級生に出会って、二人で歩き続けました。親切なおじさんにこえをかけられ、「裸足じゃたいへんだ」と、わら草履を買ってくださいました。また歩きました。夜中の二時頃、山の上から長崎市内を見ると、赤く燃えて火の海のようでした。ときどき、B29が飛んできて、照明弾を落とす。ほんとうに地獄のようでした。

毎晩死骸を燃やす
 途中の駅から、ようやく列車に乗ることができました。駅に着いたら、両親が、いまから長崎にいる姉たちを探しに行くところに出会いました。 
 長崎から大草のトンネルの山を越えて、良く歩いたのだと思います。家について病院に行き、頭や顔、背中のガラスの破片を抜いてもらい、いっぺんに悲しみがこみあげてきました。 
 近所の小学校には、亡くなった人やけが人が、次から次に運ばれてきました。毎晩、木材を重ねて、亡くなった人を燃やしました。
 十月頃から学校が始まって、慰霊祭があって、死んだ級友たちが並んでいました。クラス編成がありましたが、ひとクラス減ったみたいでした。
 あれ以来、ずーっと胃が痛く、いろいろ検査を しても原因がわからない。入院もなんかいかしました。それから、食べ物にも注意して、無理しないようにしています。無理せず、孫のお守りをしています。
  原爆は、ほんとうに恐ろしいと思います。二度とこんなことがないことを 祈ります。

語り: Nさん
聞き書き: さいたまコープ・ドウコープ
出典:「平和がいちばんいい」
発行:埼玉県生活協同組合連合会 TEL048-833-5321