当時私は、広島市の東方、「海田市町(かいたいちまち)」にあった軍需工場にお勤めし、二十歳でした。
あの日(八月六日)、いつもの通勤コース(自宅・・電車で広島駅へ・・列車で海田市町へ・・工場)で、工場に向かう途中、「ピカーッ」とした閃光に、夢中で近くの防空壕に飛び込みました。
その瞬間、「ドカーン」と爆弾が落下したような、轟音がしましたが、しばらくして静かになり、防空壕からのぞいてみましたが、なんにも異常がないので、また、工場に向かいました。
黒こげの死体が山になって
事務所に到着すると、上司から、「おまえいきとったんかー」といわれました。
無理もありません。前日、上司から、「広島市大手町」に用事を頼まれていましたかが、その日のうちに用事を済ませていたのです。
何が幸いするか分かりません。上司に言われたとおりに、八月六日に大手町に行っていたらと思うと、感無量です。
当日は、広島の自宅に帰れませんので、海田市町の親戚の家に宿泊し、翌七日、広島市基町の施設に行く「トラック」に便乗させていただき、帰宅することにしました。市内の大正橋で降車、帰途、歩道に大勢の人が横たわり、身体が垂れて、「お水をちょうだい」といっていましたが、近くにいた軍人さんから「水はあげないでください」と、注意されました。
帰宅してみますと、父は、市役所の建物疎開作業に従事中「被爆」し、空襲と思い、折り重なるように伏せて助かり、元気とはいえないまでも、家族一同安心しました。
翌日から出勤、毎日「徒歩通勤」はできませんので、海田市町の親戚の家に宿泊することが多くなりました。
二、三日後、爆心地に近い「基町資材集積所」に、男性軍属五、六人と、私を含めて、女性二人で、遺体の収容にでかけました。
このあたりは、陸軍病院のあるあたりですが、人や馬の死体が散乱し、防空壕には死体が折り重なっていましたので、軍属の方が集めて、火葬されました。
爆心地に近い「相生橋」のたもとには、捕虜になった外国人の死体や、黒こげの死体が散乱し、目を覆うばかりの惨状でした。
いまも肝臓障害の後遺症が
大手町にある、私が探していた家は、やっと見つかりましたが、もう「白骨」となっていました。まだ、あたりは、焼け残りの熱で温かく、しばらく手を合わせて、ご冥福をお祈りしました。
道路の防火用水には、男女の区別はつきませんが、抱き合った二人の死体があり、私は足がガタガタ震えるばかりで、どうすることもできませんでした。
その年の十月の終わり頃から、私は熱におそわれました。市内の病院は全滅してしまいましたので、近くの養老院で診察を受けました。当時はまだ、「原爆病」のことは、全く不明でしたが、家族の必死の看病の効もあり、年内には熱も下がりました。
しかし、父は、髪の毛が抜け、赤い尿が出るようになり、結局、昭和二九年「胃がん」で亡くなりました。原爆が原因だったのかどうかは、全くわかりません。
わたしは、昭和二一年に結婚、子ども四人をもうけ、上の三人までは、ABCC(アメリカ原爆研究所)から検査依頼を受けました。主人も「似島」で、軍人・被爆者の看護に従事しましたので、やはり検査を受けました。
昭和三二、三年ころ、私も長く患いましたが、原因不明で、肝臓病、死斑病、貧血などの病名がつけられ、先生が「これは原爆症」だ、ということで、原爆手帳をいただきました。
現在も肝臓病は残っており、定期的に検査を受けています。
語り: Hさん
出典:「平和がいちばんいい」
発行:埼玉県生活協同組合連合会 TEL048-833-5321