被爆の証言

1925年生まれ。広島工専への通学途中、爆心地から約1km付近で被爆、顔や両腕に大やけどを負いながら生き延びる。

当時の記憶

1945年8月6日は数日雨が降らない日が続いていて、当日の朝もムンムンとした暑い日だった。市役所から配給された食券を使い食堂で朝食(芋などが入った質素なおかゆ)を済ませ、偶然であった下級生と少し言葉を交わし、「また昼、会おう」と言い広島工専(現在の広島大学工学部)へと向かった。下級生とはそれっきり会うことは無かった。

その途中被爆地から1kmの地点で光線を感じ、熱線を含んだ爆風とともに辺りに飛ばされた。

土埃のため視界は暗く当たり一面の音はすべて無かった。すぐそばに爆弾が落ちたのかとしか思えず、服はシャツもズボンの袖や裾は破れて飛んでいき、全身は火傷を負い、血が流れていた。「これはやられた。自分は死ぬんだ。」と自身の死を覚悟した。と、同時に「アメリカの奴、やったな。負けるもんか」とも思った。

背中の痛さに気付きシャツを脱いだら、背中が燃えていた。気が付くまで10分から20分くらい燃えていた。気が付かないほど数分の出来事はショックだった。

辺りは足の踏み場も無く、ガラスや釘、瓦礫などが散乱していた。学校まで逃げる途中、目の玉が出ている人、ガラスが刺さり全身血だらけの人、腸が出ていているのを自分の手で必死に押さえる人などに出くわした。川に飛び込んだ人や子供のほとんどが亡くなった。

どうにか学校に戻ったものの、壊滅状態のため親戚の家まで行くことにした。親戚の人はTさん(語り手)が火傷でひどい顔をしていた為か、顔を見ても本人だと認めてはくれなかった。

どうにか説明し、親戚の人にも南へ逃げるように伝え、自分も必死で逃げたが、気力、体力も無くなり道路の上で意識を失った。

その後、しばらくして救助作業をしていた軍のトラックがやってきた。軍隊の人たちは女性や子供は乗せず、戦争に役立つ若い男性ばかりを助け出そうとした。

何も知らない小学校1年生くらいの女の子がトラックに乗ろうとしたが、軍人に厳しく怒られビックリして燃え盛る火の海の中へと行ってしまった。当時、Tさんは歩けなかった。その女の子を助けてあげられなかった。今でも自責の念にとらわれている。

助かったTさんは、トラックに載せられ、その後、広島市外から船に乗せられ似島の野戦病院へと向かった。野戦病院では毎日多くの人が亡くなっていった。

Tさんは野戦病院で意識を失った。その日々は40日間も続いた。そのため終戦を知ることはできなかった。

「40日間、誰かが支え、助けてくれたので今の命がある。」

数日後、Tさんの話を聞き、似島まで探しに来た母が野戦病院内をTさんの名前を叫びながら歩き、広島の街へと連れ戻した。

しかし、その事実を意識の無かったTさんは知らない。母の声が無意識の中で分かったのは、子供の頃に母が子守唄を歌ってくれたからではないかと話した。

伝えたい言葉

 Tさんの体は、大腸がん、前立腺がん、心臓病を患っている。それ以外にも放射線により造血機能が無くなり貧血にも悩まされている。がんが再発しないか、転移しないか3ヶ月に1度検査をしている。

 被爆後、10年、18年、20年後にも危篤状態となり、そのつど輸血で生き延びている。

 「人の命は絶対に大切だから守ってほしい。

  人間の尊厳を傷つけるのは何事だろうと思う。

  人の命をやり取りするような戦争はもってのほか。

  1発で何万人も人を殺す核爆弾も

  テロも無差別殺人も強盗殺人も許せない。

  恒久平和のために私は絶対にあきらめない。」

  語り:S.T.さん  ヒヤリング:金子晶子