食事も忘れて被爆者の看護

 私は、広島から電車で二十分くらいの、坂町の国民学校に、養護婦として勤めておりまして、八月六日は早めに出ておりました。 二階の裁縫室いうんですが、そこで原爆に遭いまして、すぐ近くに落ちたように見えたんですね。
 というのも、発電所いうのがありましたので、それが爆発したのかなと思ったんです。その爆発と同時に、 額が頭に落ちてきて、ちょっとけがをしました。そしたら、今度は他の先生や子どもたちが、ガラスの破片でけがをしたとかで、私が治療しました。
 そして、帰ってまいりましたら、広島の方からきた被爆者が、学校の講堂に入りたいと、私にお願いするんです。 私は当時十九歳で、元気で若かったので、いろいろ世話をしました。一八七名もの方を収容して、役場の方にも協力してもらいましたが、十五日間ほとんど一人で看病しました。
 いま思えばぞっとするんですけど、講堂にずーっと被爆者を 寝かしましてね。毛布も、あとから届いたんで、はじめは板の間に寝かせたんです。それで、私が歩いていますとね、「看護婦さん、看護婦さん」って声がかかる。見ると、肩から全部洋服が黒こげで、足がぶら下がっているだけのような人もいました。

乳母車をひいて死んでいた母親

 顔中にガラスの破片が刺さっていた人は、二、三日すると、穴からうじ虫がわいて来るんです。それを私がとってバケツにいれて。そのうちに亡くなっているひともいて、亡くなったかたは、形式的な箱を 棺がわりにして、ご遺体をいれて、お線香ひとつもあげられない状態だったわけですよね。
 次の日、被爆者たちを診ながらどうしようかと思っていましたらね、巡査さんが広島の方へ行ってもらえないかというんです。 私も若かったなあ、良くやったなあ、と自分ながら思うんですけどね、何も食べてないのに、すぐ行くことになりました。
 広島に行きますと、護国神社というのがありましてね。いまでも覚えているんですけど、その護国神社で、お母さんが、乳母車に手を乗せたまま亡くなっていて、その子どもさんは、乳母車の中で生きているんですよね。「おかあさん、おかあさん」いうてね。気の毒だなあと思ってましたら、誰か他の方がつれていきましたけどね。
 あちこちで人が亡くなっていまして、広島の駅の方でも、ご遺体を運びましたし、比治山でも看護しましたし、ちょうど坂町の人たちが、比治山に動員されていましたから、その人たちを坂町の自宅に運んだり、 亡くなった方は学校の講堂に運んだり、それを繰り返して。
 ほとんど家で休むということはなかったんですね。患者さんも、学校の近くに用があったもんですから、水を呑みに行かれるんですよ。水を呑んじゃだめだいうても、どうしても人数が多いもんだから、目が届かないんです。そして、終わりごろになって、町の看護婦さんとか、国防婦人会の人たちが手伝い始めたんです。 それで、やっと少し楽になれたかなーと思っていたところへ、今度は各家庭の病人の治療にいったり。
 役場の人たちがこないから、役場から天ぷら油をもらったり、食料を手配したり。被爆者の人の中に、帰りたいいう人もあるんですよね。でも、帰るお金がないから、役場からもらったり。医者がいないもんだから、私がみんなに赤チンをぬってあげるんですけど、多くの人たちが死んでいかれました。そのうち私もギックリ腰になってね。

 私は、こういう体験を忘れよう、忘れようとしました。けど、何年かたつうちに、自分が病名不明の入院を、一週間から長くて二週間ぐらいするようになって、でも、病名がわからないいうことで退院することが、しょっちゅうありまして、忘れられないですね。
 結婚して長女をもうけたんですけど、主人が肺結核におかされて、それで、日雇い労務をはじめたんです。でも、身体が続かないんですね。一日働いて、やっと二四〇円でしたか、そのお金でその日食べるものを買って。そういう生活でした。その当時は、私ひとりで映画が撮れるなーという気持ちでおりましたけど、いまは、忘れるように、忘れるようにしてきました。

どうして被爆手帳がもらえないの!
 被爆手帳のことは、東京にきてからも知らなかったんです。だから、もらう手続きをしてこなかったんです。昭和五七年に、胃ガンの手術をしたんですけど、そのときに、いまからでも手帳はもらえるいうんで、埼玉県庁に申請して出してもらいましたけど、知らない人がまだいっぱいいると思うんですよね。
 しかも、手帳をもらうには、その当時のことを知っている証人がいるいうことでしょ。でもその人を探すのは、費用もかかるし、町名も変わっているし、もう私たちは七〇歳になるでしょう。手続きはできにくいですよね。だから私は、私が看護した一八七人の中に、だれかそういう保証人を探している人がいるんじゃないかなーって思うんです。でも、全員の名前を覚えているわけではないし。
 主人は、私が病気になると機嫌が悪くってね。生活保護をうけたり、いろんなことがありました。昭和三八年に一番下の子をつれて、埼玉県にきたんです。そういうことでね、やはり、この原爆のために、原爆がおちなかったら、私の身体もここまで弱りもしなかったし、家庭の不和もなかったんじゃないか。
 そして、私だけじゃなく、そういう人が多いんではないかなあということをいつも思うんです。しらさき会の会報を見て、保証人が見つからないために、被爆手帳がもらえない方の話を読むと、うそをついている被爆者はいないのに、なんで国は出さないのかって思います。原爆で苦しんでいる人がいるのに、もう少し楽に手帳がとれるようにしてもらいたいと思います。

語り: Sさん
聞き書き: さいたまコープ・ドウコープ
出典:「平和がいちばんいい」
発行:埼玉県生活協同組合連合会 TEL048-833-5321