1927年(昭和2年)生まれ。当時17歳、広島師範学校学生。
放射線が焼きつかれた広島の街を歩き被爆。自分の体からは今も放射線は出て行かない。
当時の記憶
8月6日の朝は広島の街から6km離れた金輪島で物資の運搬中に原爆を体験した。
当時は広島方向からの熱線を感じそのまま気を失った。
頭の後ろにガラスの破片が当たり血が流れていたが、気にせず必死で海へと逃げた。
その途中できのこ雲を見ていた。そのときは誰一人言葉を口にする人はいなかった。
すぐに広島の街へ戻り救援活動にあたった。
髪の毛は針金のようになり、服は爆風で裂かれて裸同然となり皮膚は焼けただれ肉がぶら下がって落ちている人、全身ビフテキのように焼けた人もいた。
暑さのあまり、川に身を投げた人もいたがそのまま亡くなった人も多かった。
男性らしき人は顔に熱線を浴び目は垂れ落ち、顔からは黒い血が出ていた。周りの足音を頼りに音の方向へ歩いていた。
静寂の中、体全体から出す低いうめき声が響いた。
それでも人々は必死にうごめきながら歩き、必死に逃げていた。
Eさんは、自分の足元に音も無くやってくる水を求める黒い手を編み上げの靴で蹴りながら先へ先へと進んだ。(当時、火傷等を負った人には水を与えてはならないと教育されていたため。)どうして助けなかったのだろうか?と自責の念は今も続く。
原爆投下後の9月17日、広島の街を枕崎台風が襲い、川に身を投げた方の遺体は台風の通過に伴い、川底に埋められた。戦後いまだに遺体は掘り起こされていない。
また、似島の検疫所に運ばれた1万人の被爆者のうち広島に戻ってこれたのは500人だった。
「平和記念公園の下にもいまだに死体は眠っています。広島は屍の街なのです。」
広島に落とされた原子力爆弾
当日の朝は高度1万kmを越える高さ(打ち落とせない高さ)に3機のB29が飛んでいた。
先頭は「エノラゲイ」機長のチベッツの母親の名前である。(Eさんは未だに理解できない頭がまともでなかった?と思っている。)
相生橋を目視できる高さに下がり、相生橋を標的として核兵器(リトルボーイ:アメリカ軍は小さな坊やと大切そうになでながらB29に積み込んだ)核兵器は相生橋を外れ近くの島外科病院上空に落ちた。3機のB29は安全なところへ45秒の速さで逃げていった。
3秒後、核爆発し、多くのものを巻き上げながら、中心温度250万度、表面温度30万度の核兵器からなる爆風が広島の街に吹き荒れた。街は引きちぎられ、曲げられ、壊滅した。熱で建物は自然発火し、直下にいた人は即死し何も言わずに燃えつきてしまった。
腕のない人も、足のない人も、皮膚が焼け焦げた人も必死で逃げる後から火が瞬く間に襲ってきた。広島の街は8月6日から9日まで燃え続けすべてを失った。
伝えたい言葉
広島の街は破壊、燃やし、殺しつくされた。今でも殺され続けている。
また、当日、核兵器が投下された後も黒い雨が降り、街には2重3重にも放射線が降り注いだ。
Eさんの赤血球は数値3500を越えることは無く、目は黄色く濁り最近では肺に影ができ始めている。Eさんの娘さんは赤血球の数値が低いので風邪、怪我、虫刺されなどをしたら治らない。
広島で生き続ける人の体に放射線は焼き付いている。
「核兵器は人間が人間でない姿に変えるもの、誰がなんと言おうと許すことはできない。
また、核兵器がある限り人類は絶滅する。」
(Eさんはマンハッタン計画に当った人、トルーマン元大統領、核兵器投下を実行した12人の兵士を裁くべきではないか?と思っている。)
1953年アイゼンハワー元大統領は核兵器の平和利用宣言を発表。しかし、在任中1000発の核弾頭は26700発に増え、1960年には広島の何万倍と言われる威力の核弾頭が開発された。また、アメリカは自国のウランを各国に分け与え原子力発電所を作っている。
日本は核兵器の被害を受けながらも原子力発電所を作り続け福島の事故を起こした。
福島では今でも放射線を出し続けている。
「日本人が、広島、長崎の事実を学ばなかったその結果なのではないか?」
語り:E.Y.さん ヒヤリング:金子晶子