Tさん(語り手)は3歳のとき、被爆地から2.5kmの牛田町(広島市東区)の疎開先で被爆。幟町(のぼりまち)小学校の2~6年で禎子さんと同じ組でした。禎子さんの死後、原爆の子の像の建立を級友たちと最初に呼びかけた。
当時の記憶
1945年8月6日当時の広島市の人口は35万人とも言われています。原爆投下後、広島市外から広島市内に入って家族を探した人、黒い雨に打たれた人など44万人が被爆の被害を受けたとされています。
Tさん(語り手)には二人の兄弟がいて、一番上の兄は通っていた中学校で被爆し、翌朝「残念だ」の言葉を残し亡くなる。2番目の兄は体の3分の1に火傷を負い、十分な治療処置もできず、輪切りにしたきゅうりで熱を冷まそうとしたが、皮膚にあたる部分が擦れて痛いため、すりおろしたきゅうりを当てて熱を冷ました。しかし、懸命な看病にもかかわらず、その後亡くなった。
Tさんは、家の中で被爆した。爆風のため家具などが倒壊した。Tさんの体の上には蚊帳が覆いかぶさり、助かった。
また、当時2歳だった禎子さんは、被爆地から1.7kmに自宅で黒い雨により被爆した。
禎子さんとの出会い
原爆投下後の9年後(1954年)、広島市内の土を掘ると、人骨や焼け爛れた瓦が出てきた。
街の人々は「あんた、ピカの時どこにおったん?」という言葉が挨拶代わりに使われた。
Tさんは6年竹組。同じクラスの禎子さんに出会う。禎子さんは運動では何でも1番で、特に走るのが速く、秋の運動会ではTさんと共にリレーの選手に選ばれた。担任になった野村先生はクラスがまとまっていないと感じ団結の心を持たせることを目標にし、秋の運動会に向けてリレーの練習を放課後クラス全員で毎日行った。練習の成果を発揮して竹組は優勝することができた。一つの事を全員で取り組む竹組には団結の心が芽生えた。
禎子さんとの別れ
その後、11月下旬、禎子さんは首や耳の後ろにいくつかのしこりができ始め、ABCC(原爆障害調査委員会、アメリカの機関)で検査をすることになった。
その後の1955年1月白血病と診断され2月21日に広島赤十字病院へ入院した。
Tさんたちは小学校卒業式の2日前に「団結の会」を結成し、1ヶ月に1回は小学校に行き先生に会うこと。誰かが結婚したらお祝いすること。禎子さんのお見舞いに行くこと。と約束をした。
最初のうちは毎日のようにお見舞いに行っていたが、禎子さんに「中学校ってどんなところなん?英語の勉強って楽しいん?」と聞かれるたび、一緒に中学校に通えないことが分かっていた友達は「中学校なんて楽しくない。小学校の方がよっぽど良かった」などと話をした。しかし、それが、だんだん辛くなり、お見舞いに行く回数も減っていってしまった。
8月に禎子さんのお見舞いに行った時には、手足に紫色の斑点ができていた。白血球の数値も7月に10万を超えていた。
その頃から禎子さんは薬包紙やキャラメルの包み紙、包装紙などで折り鶴を折り始め、天井に吊るし始めた。
9月以降も白血球の数値が上がり始め、次第に自力で歩けないほどに体調が悪化した。
10月25日の朝、家族が見守る中、禎子さんは亡くなった。
Tさんは急いで病院へ向かったが、禎子さんの父から折り鶴を2~3羽形見として受け取った。
原爆の子の像建立へ向けて
禎子さんの亡くなったあと、6年竹組の「団結の会」では、何もしてあげられなかった禎子さんのためにお墓のようなものを作りたいと考え、1955年11月12日広島市公会堂で行われた、全国中学校校長会の会場前で手作りのビラ2000枚を配り、全国の中学校に像を建てることを賛成してくれるように呼びかけた。
その後、同じ年の11月頃から幟町中学校に募金が集められるようになり、Tさんたちは、街頭で募金活動なども行った。
禎子さんが亡くなってから1年後の10月には平和記念公園に像の設置が決まり、像建立の活動を始めてから2年半後の1958年5月5日平和の子の像の除幕式が行われた。
Tさんたちは、像を見上げた。千羽鶴を持つ少女は禎子さんによく似た女の子だった。
伝えたい言葉
禎子さんの話をすることも、当時を思い出すのも本当はとても辛い。しかし、被爆者として二度と戦争をくり返さないためにも、今日の話を誰かに伝えてほしい。
語り:T.K.さん ヒヤリング:金子晶子